Thursday, September 29, 2011

ルネッサンス時代の通貨

本日のテーマはルネッサンス時代の通貨です。昔の人の日常生活はどうだったんだろうと一度ぐらい日本の皆さんも想像してみたでしょう?最低のお給料、それとも当時の居酒屋でのお食事代とかアパートの家賃、そして美術の作品などのコストはいくらぐらいだったのかな?
このポストでこれらの質問に答えてみます。
まず、ローマ帝政時代に統一されていたイタリア半島は、帝国崩壊した後、数えきれない多くの小さい国に粉砕してしまいましたので、国によって法律、社会制度、通貨などがそれぞれ違ってきました。もっとも広く受けられていた通貨であったギルダー、ダカットやシールドとともにカルリーノとかテストーネとかバヨッコなどもありました。
我々の社会のように昔の人々もいくつかの社会層に分かれていましたが、所得分配が平等ではありませんでした。例えば、建設労働者の月給は約24カルリーノ(現在の6万円ぐらい)となっていましたが、家政婦(家のお手伝い)が月々に1ダカット(だいたい1万円)しかいただけなかったらしい(もちろん、食事もお部屋も無料でした)。それから、学校の先生は2万5千円ぐらいで、お医者さんが15万円を稼いでいたと言われています。
しかし、物価はどうなっていたでしょうか。それを知らないと、上記のサラリーが多かったか少なかったかわかりにくいですね。
当時の市場では250円でパン1キロぐらい買えたそうです。もう少し出せば、羊の肉を一キロを手に入れられた(500円)。それと、洋服のほうはけっこう高かったみたいです。レーディーズのシャツ一枚は5000円前後ぐらいとなっていて、毛糸のロングスカートは3万5千円まであっぷしていたらしいです。したがって、自分の奥さんにシャツをプレゼントをしようと思ったら、昔のお医者さんは1日働いて、普通の労働者が3日間ぐらい働かなければなりませんでした。お金持ちの家のお手伝いさんは?シャツ1枚を買うのに、20日間仕事しなければならなかったので、きっとあきらめていたでしょう。
しかし、今のサッカー選手とかハリウッドの俳優・女優さんほど、いちばんお金持ちだったのはルネッサンス時代のアーティストでした。数年前までレオナルド・ダ・ビンチがいちばんリッチだと思われていたけれども、古い契約書、ドキュメントなどを発見した学者たちのリサーチによるとミケランジェロのほうがお金持ちだったようです。
確かに、ルネッサンス時代のトップアーティストであったミケランジェロは貧しい人に見えるほどの質素な生活をずっと送っていたが、いっさい貧乏ではなかったです。実は被害妄想であった彼は他の人にどのぐらいお金をためていたか知らせたくなかったのが事実です。
88才でなくなった時は日本円で計算してみたら、財産と現金も含めて50億円ぐらいを秘密にためていたと思われています!!!
しかし、ラファエロ、レオナルド、そしてティツィアーノ、ティントレットやカラバッジョなどもたくさん稼ぎましたが、人によって生活水準が極端に違っていました。(つづく)

Monday, August 29, 2011

お昼ご飯はどこにする?

最近、バチカン美術館の近くに(Via Germanico 9)有機栽培のサンドイッチやお弁当を売っている小さいお店を発見しましたので、ぜひご案内したいと思います。
FA-BIOというお店ですが、座るところが少なくてせまいけれども、食べ物はおいしいし、ヘルシーなので、お勧めします。その辺で働いているイタリア人のサラリーマンもお昼ご飯を食べに行くところですので、保証できます。
サンドイッチ、サラダ、お弁当。どちらを選んでも3〜5ユーロぐらいで召し上がれます。けっこうリーズナブルでしょう。それとバイオの果物、缶ジュース、生ジュースもあります。特に生ジュースがおいしくて、試すべきです。僕の好きなジュースはLA BUONISSIMA(洋梨、オレンジ、にんじんとショウガ)とLA DISSETANTE(オレンジ、レモン、グレープフルーツとウイキョウ)です!!!
スタッフは2人の男の子だけですが、とても親切です(めずらしい!:P)。
安くておいしいご飯を食べたいなら、最適。
















お持ち帰りはもちろん可能。営業時間は月〜土9時から20時までです。

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Wednesday, August 3, 2011

カラビニェーリとポリツィーアはどっちがいい?コラッツィエーリだよ!

日本の観光客によく聞かれること。基本的に義務は同じですが、歴史がちがいます。カラビニェーリは1814年の6月にサルデニャ王ヴィットリオ・エマヌエーレ1世に作られて、国防省による国軍です。ポリツィーアは1848年に作られて、内務省に管理される治安部隊です。
カラビニェーリのユニーフォームは全部黒で(上着とズボン)、腕と足の外側に赤い線がついていますが、ポリツィーアはワイシャツに紺色の上着とグレー色のズボンという制服となっています。
しかし、いちばんかっこういい兵隊はコラッツィエーリだと思います。
イタリア大統領につく特別なボディーガードですが、カラビニェーリの一種です。正式につくられたのは1868年のことですが、1948年から大統領だけの兵隊になっています。
前提条件はいくつもありますが、まず最低身長(190cm)と特別な体力です。それと、乗馬できることとパレード時にオートバイを運転できることは絶対必要です。
現在、コラッツィエーリの数は274人となっています。
では、コラッツィエーリの写真がとれる穴場のご案内はいかがですか。
興味がありましたら、市内観光コースをご相談の時に指定してください。そのオプションもツアーに入れておきますよ。

Tuesday, July 12, 2011

モンドアランチーナ

今日は仕事の帰りでおなかがへっていたので、僕の大好きなモンド・アランチーナによりました。アランチーニ(ライスコロッケ)、パニーニやカットピザなどのシチリア料理のおいしいつまみのお店です。

ここ数年大ヒットしてから、チェーン店になりましたが、クオリティが落ちていません。今はローマ中5店舗ぐらいあります。自分がよく行っているのは地下鉄A線のレパント駅のお店ではおまけにWi-Fiというインターネットの無料接続をご利用もできますので、パソコンをよく持ち歩いている方にはおすすめします。うまいシチリア料理を食べながら、インターネットも楽しめますから!
あっ、忘れていました!いちばんおいしかったアランチーノはパナレアという野菜入りのライスコロッケです( 僕はベジタリアンですからね)。

MONDO ARANCINAの住所はVia Marcantonio Colonna, 38
00192 - Romaです。電話 06-97619214


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Sunday, July 10, 2011

ザ・キーホール

このキーホールはローマで有名な穴場です。アベンティーノの丘ではマルタ騎士団のきれいなお屋敷がありますが、バスと地下鉄が走らないところなので、多くの観光客は通らなくて、隠れています。そこで、お屋敷の大きい扉が有名です。扉のキーホールをのぞくと、奥のほうにサンピエトロ寺院の展望台のうすい姿が現れます。

お屋敷は17世紀の建物で、18世紀の後半に建築士ジョバン・バッティスタ・ピラネージが鍵穴も含んで入り口とその前にある小さい広場をデザインしたものです。


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Saturday, July 9, 2011

ベストチェンジ

確かに昔のリラ時代のほうが両替所はいっぱいありましたけれども、ヨーロッパがECになってから、ユーロ時代にかわって、多くのチェンジオフィスはなくなってしまいました。
なので、ローマで現金が足りなくなった場合、けっこう困ります。もちろん、銀行でも両替できますけれども、レートはちょっと高いし、手続きが長いし、言葉の問題もありますので、面倒くさいですね。しかし、テルミニ駅のすぐ近くに、面白い、イタリアらしいお店があります。店内は狭くて、古くて、スタッフっておじさん一人だけですが、ローマ市ではベストチェンジだと思います。レシートをいただけないかもしれないけれども、レートがいちばんいいと思います。おすすめです。
 住所はVia del Viminale 2となりますが、オペラ座にもちかいです。

Tuesday, July 5, 2011

秘密の教会

サンタ・マリーア・マッジョーレ寺院のすぐ近くにほんとにきれいな教会があります。おもてに出ていなくて、あまりメージャーな教会ではないのに、ぜったい見る価値があるサンタ・プラッセーデ寺院というところです。歴史が非常に古くて、内部の装飾はビザンチン時代(6〜9世紀)の傑作です。


サン・ゼノーネ礼拝堂のモザイクをぜひ見たほうがいいです。
営業時間7〜12時30分/16〜18時30分
住所 Via Santa Prassede

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Sunday, July 3, 2011

灯台

港町ではありませんが、ローマも灯台をもっています。ジャニーコロの丘の近くにあり、アルゼンチンに住んでいるイタリア人の移民が1931年に寄附したものです。ご存知でしたか。
 灯台からジャニーコロの丘の頂上までのぼるとローマのすばらしい景色を楽しめます。
教皇ピウス9世によって(19世紀の半ばごろ)、12時のお知らせするために鐘のかわりに大砲を使用することになりましたが、この丘で毎日イタリアの兵隊が大砲を配置して、弾丸を撃っているのは1904年からです。